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露文徒の雑記

トルストイ「光あるうちに光の中を歩め」について

トルストイの「光あるうちに光の中を歩め」(執筆時期不明、原題:ходите в свете пока есть свет)は、キリスト教の説話的な話で僕は割と好きな作品です。

 

簡単なあらすじ

舞台は原始キリスト教時代の古代ローマキリスト教がまだ異教だった時代です。

主人公のユリウスは、裕福な商人の家の子で、かつてその家の奴隷だった人の息子のパンフィリウスというお友達がいます。

二人は15歳になるとき一緒に哲学者の元へ修行へ出されました。しかし、卒業一年前にパンフィリウスは母と二人で小さな町に移らなくてはならなくなったため、学校を去ることになりました。

そこでパンフィリウスは自分と母親がキリスト教徒であることをユリウスに告げ、ユリウスを誘いました。しかし、ユリウスは「キリスト教徒は子供を殺して食べる」というような悪い印象をキリスト教徒に待っていたので断りました。

ユリウスはその後裕福な青年の習慣に従い、多くの奴隷を使い、放蕩に明け暮れました。ユリウスは金を使いすぎて不足した金を金持ちの父や母に請求しました。息子に甘い母は父に息子を許すように言いました。そして、金持ちの娘と結婚することを条件として出しました。

家を出て行ったユリウスは、パンフィリウスのことを思い出し、いっそキリスト教徒の元に去ってしまおうかと考えます。そしてキリスト教徒の共同体へ向かっていきます。

道の途中で一休みしようとしたところ一人の男に会います。

その男に事情を話すと「若い衆、そんな考えは実行しない方がよい。」と言い、キリスト教の矛盾を説き始めます。男の長い話はユリウスを説伏し、ユリウスは家に帰り父の条件通り結婚することにしました。父の事業の一部も引き継ぎます。

その後あるとき街に商用で出掛けたとき、パンフィリウスがキリスト教徒の娘と二人ずれで街を歩いているのを見かけます。ユリウスとパンフィリウスはここで互いの生活状況などを話し、幸福や結婚について議論を始めます。(ここが長い)

それから10年が過ぎます。その間二人が会うことはなく、ユリウスの商売は成功し、公職にも携わるようになりました。

ユリウスは怪我で3ヶ月床に着くことになりました。その間看病してくれていた女奴隷はキリスト教徒でパンフィリウスのことを全て教えてくれました。(彼が仲間のうちで最も優れた兄弟の一人でたくさんの敬慕を集めていたとか)

それを聞きユリウスはじっくり考えてキリスト教徒たちのもとへ行くことを決意します。

その翌日医師が診察に来ました。その医師こそ、ユリウスがキリスト教徒のもとへ行こうとしたとき出会った見知らぬ男だったのです。

ここでまた議論が繰り広げられ、ユリウスは説き伏せられてしまいます。

あるとき、ローマ皇帝の方策でキリスト教弾圧が行われることになり、パンフィリウスがユリウスのもとへ訪れ、またまた長い議論が行われます。

その後さらに12年経ち、ユリウスの財産は莫大な高にのぼります。しかし、妻は死にユリウスと息子とたちは不仲になり、ユリウスの地位は他の太守に奪われます。

ユリウスはそれまでのパンフィリウスの言葉などを思い出し、キリスト教徒たちのもとに向かいます。1日歩き続け宿をとったユリウスは医師と三度目の出会いを果たします。

今度こそユリウスは説き伏せられずにパンフィリウスのもとに行くことができ、教徒たちから歓迎されます。

翌朝ユリウスは、そこでの自分の仕事を探すために葡萄畑を訪れますが、働いているのは若い人ばかりで、「おれはもう何の役にも立たない。いまさら何にもすることはできない」と老人になるまでここ行なかったことを悔みます。

そこに一人の老人が現れ、自分たちにもできることはあるということを教えてくれます。その後ユリウスはそこで力が及ぶ限り働きながら20年暮らし、死を迎えます。

 

感想

後期のトルストイは「二老人」みたいな説話が多いんですけど、この作品もそれに分類されると思います。

あとこの時期のトルストイといえば「クロイツェルソナタ 」とか「イワンイリッチの死」みたいなある人の半生を描いた作品も僕はすごく好きで、この作品もその手法が使われているので、すごくトルストイらしい作品だなと思いました。

途中所々で出てくる長い議論はキリスト教徒じゃない僕には正直ピンとこない話ですけど、一番最後に「光あるうちに光の中を歩め」という言葉でユリウスが救われる終わり方はとても綺麗だと思います。

 

 

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