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露文徒の雑記

平沼騏一郎について

平沼騏一郎といえば第二次世界大戦直前の首相で、「欧州情勢複雑怪奇」という謎の言葉を残して退陣したので有名ですけど、気になって調べてみると経歴がなかなか面白かったので書いておきます。

 

生い立ちから軽く説明すると、この人は美作藩の士族出身で首相就任までは大審院事務局長、司法大臣、検事総長など主に司法界で活躍してたみたいですね。家族もそっち系の人が多いみたいです。

 

僕が調べてて一番意外だったのは1910年の大逆事件で検事として幸徳秋水の死刑を求刑したってところですかね。

治安維持法の前身となる法令を作ったのもこの人みたいなのでガチガチの右翼って感じですね。

 

政治関係だと天皇機関説事件と若槻内閣、浜口内閣批判で西園寺公望の不信を買ってたってところですかね。

これのせいでなかなか枢密院議長とか首相に推薦されなかったみたいで、西園寺公望が育てた立憲政友会と齋藤内閣を潰すために帝人事件を起こしたって説があるみたいです。

西園寺公望のことをめっちゃ恨んでたってのはかなり信憑生が高いです。

 

そんなわけで彼は政党内閣が嫌いだったんで軍部系に肩入れして第1次近衛内閣の後継として組閣したわけです。

 

首相やってる間は特に大したことしてないんですけど、「欧州情勢複雑怪奇」という言葉を残して退陣したってところについて説明すると、この頃日本はロシアと仲が悪くて張鼓峰事件とかノモンハン事件でロシアにボコられてたんですけど、日本と同盟組んでるドイツが急にロシアと独ソ不可侵条約を締結しちゃったんで、意味わかんねぇって感じで嫌になっちゃたんでしょうね(^^)

 

退陣したあと戦争中は近衛内閣で国務大臣とかしてたみたいですね。一応開戦には消極的だったみたいで、東条英機内閣倒閣に一役買ってたみたいです。

 

戦後、極東国際軍事裁判ではA級戦犯に指定、終身刑を宣告され、巣鴨プリズンへ投獄。最後は獄中で病死したそうです。

 

政治以外の活動としては、慶應義塾大学法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの大東文化大学)総長、大東文化協会大東文化大学の設立母体)会頭、皇典講究所国学院大学の設立母体)副総裁などを務めたらしいです。

 

ソースは大体ウィキペディア

 

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